不正が正式に確定

新聞各紙は1月6日、理化学研究所は、小保方さんがSTAP論文の不正を認定した先の調査委員会の報告書に対して、期限までに不服申し立てがなく、STAP論文問題不正が確定したと一斉に報道した。

理研は、近く懲戒委員会を開いて小保方さんらの処分を検討するが、すでに小保方さんは理研を退職しており、単なる確認にとどまることになる。

小保方さんは、「STAP細胞」を難病治療につながる基礎研究と位置づけていたはずではなかったのか。それがどうしてこんな結果になってしまったのか。

マスコミ各紙にはSTAP問題の真相をとことん解明してもらいたい。理研もこれで幕引きではなく、なぜこんなスキャンダラスな研究不正が起きてしまったのか明らかにしてほしい。他人事ではないのだ。

今回の問題は、難病を抱える人たちに希望を与える再生医療につながる分野だけに、関係者らの落胆は大きい。

当初から分かっていたことなのに

科学界の一大スキャンダルとして取りざたされてきた「STAP細胞」をめぐる問題が、理化学研究所の調査委員会によって、ようやく結論が下された。

STAP細胞から作ったとされた細胞や組織は、すべてES細胞の混入に由来する、あるいはそれで説明できる。STAP論文はほぼすべて否定された」などとする報告書が昨年末、発表された。

ES細胞の混入は当初から取りざたされていたが、検証、検証と再現実験に大きくベクトルが傾きながら、とうとう昨年末まで検証実験が行われた結果、STAP細胞の存在が事実上否定され、今春まで予定されていた検証実験は打ち切られた。何のことはない、実験に使った主要なマウスの遺伝子を解析した結果、すべてにES細胞由来の塩基配列がみられたというものだ。

今後の焦点は論文不正の真相解明に移行するが、理研が小保方さんの退職を認めたことで、影響がでる恐れもある。論文の共著者は小保方さんを含めて14人。国内外の研究機関にまたがっており、こちらも検証は容易ではなさそうだとの見方が大勢だ。

小保方さんは、「与えられた環境の中では魂の限界まで取り組み、今はただ疲れ切り、このような結果にとどまってしまったことに大変困惑しております。責任を痛感しておりー」などと理研を通じて退職願提出に当たってのコメントを出した。

実験環境が十分ではなく「レシピ」や「コツ」を出し切れずに再現できなかったが、STAP細胞はいまだに存在を信じて疑わないという、どうもそんな口調だ。昨年4月の会見では200回以上作製に成功したと主張していたのだが結局、小保方さん自身でもSTAP細胞は再現することはできなかった。それでもなおかつ「STAP細胞はあります」というわけだ。

今回の報告書では新たに「ねつ造」が2件認定されている。繰り返すが、STAP論文はほぼすべて否定されたのだ。結果が出たにもかかわらず、その存在を疑わない小保方さんはどういう「情緒」のヒトなのだろう。確かにここで敗北を認めてしまうとアイデンティティを引き裂かれてしまうのはよく分かる。が、これだけ外堀を埋められてしまってはもはやなすすべはないのではないか。退職願はそういう逃げの一手の意味でもとらえておきたい。

小保方さんは博士論文でも多くの疑義が出されている。1年間の猶予つきで博論の再提出を迫られている。100ページの博論のうち、20ページがコピペという常識では考えられないことを行い、データの改ざん、ねつ造を指摘されている。そもそもこんな博論を通す方も通す方だ。杜撰な早大の審査体制もなんとも情けない。

よく「D論は足の裏にひっついたご飯粒だ」といわれる。ちまたでは「取ったところで食えない」と諧謔をこめて言われているのだが、小保方さんの場合はとても食えた代物ではなかった。

まあ、冗談はさておき、STAP細胞と称せられたものはすべてES細胞由来だった。では、このES細胞は、いつ、どこで、だれが、どうして混入したものなのか? 単独で行ったのか、組織的に行われたのか。問題解決のキーマンは自殺。小保方さんは理研を昨年末に退職された。調査委は関係者に聞き取りを行ったが当然らちがあかない。

池内了総合研究大学院大学名誉教授は、「ES細胞の混入は予想できたこと。理研も気付いていた可能性があるが、早い段階で出せば混乱が大きくなると恐れたのではないか」と的確で分かりやすいコメントを述べている。

今後もきっとこんな調子で、多くの問題を残しながらも、だれも責任らしい責任を取らないで、波打ち際の砂山のように、いつしかSTAP問題は消えていくのでしょうね。

*引用文献 2014年12月20日朝日新聞、12月26日付同夕刊

その狭量さに呆れ返る

今朝、INで朝・毎・読を見ていたら毎日と読売が、それぞれがん研究についての興味深い記事を載せていた。

毎日には、既存の肝炎治療薬にがんの転移を抑制する効果がある、というもので、中山敬一・九大教授らのグループが、がんを転移しやすくするタンパク質を世界で初めて突き止めたと米医学誌・ジャーナル・オブ・クリニカル・インベスティゲーションに2日発表された研究がもとになっている。

読売の方は、野菜を多く食べる男性は少ない男性よりも、日本人に多い下部胃がんを発症する割合が低いという調査結果を独立行政法人国立がん研究センターが発表(昨年末)した、というものだ。

どちらも欧米の医学誌に発表されたものの報道だが、九大グループのものは(まあ多少の思惑はあるのだろうが)、アブストラクトはもちろん、本文(PDF)も無料で公開しているにも関わらず、がん研の方は大層な記者発表をしておきながら、アブストラクトしか見ることができない。本文の方は有料なのだ。これは全くおかしなことだ。ありていに言えば、国民の税金で運営されている国立機関ともあろうものが、広く国民の関心を集めそうな情報に対して、国民からお金を取って公開するというのはいかがなものか。本末転倒ではないのか。

生活習慣とがん発症との関係などについて、1988年から追跡している4つの大規模調査の参加者やく19万人を分析した結果だという。がんの部位別を分析した15万人では、下部胃がんで野菜を多く取った男性は少ない男性に比べて78%発症の危険性が下がったという。

こんな長い期間にわたって多くの人たちの協力を得て行った研究成果を有料で見せるとは何事かと、その狭量さに呆れかえる。確かにがん研のHPには要領よくまとまった日本語の研究概要とプレスリリースが載ってはいるのだが、やはりジャーナルに掲載された一次資料を読んでみたいというひとは少なからずいるに違いない。まして研究に個人情報を提供した多くの方々は尚更ではないのか。

言うまでもないが、情報は1次資料、2次資料、3次資料……の順に薄くなっていく。新聞各紙の情報は3次資料だ。忙しいジャーナリスト各氏がジャーナルに発表された原著論文だけで記事にまとめるということはまずあり得ない。がん研のプレスリリースをもとに、当事者に質問などして新聞記事としてまとめあげたものだ。要旨はつかめるのだが、やはり内容がやや薄いことは否めない。

原著論文をもとにしてまとめた概要版やプレスリリースは2次資料だ。原著論文だけが1次資料といえる。ここには今回の発見のすべての事実が記されている。国民病ともいえるがんの治療法や予防について関心のある人たちは研究者ではなくても、やはり1次資料にふれてみたいのではないだろうか。

繰り返すが、無償で提供を受けた数十万人の個人情報を利用して行った研究の成果は、やはり無償で国民に広く提供すべきだ。1次資料の原著論文は英文だが、だれでもが必要な時に無償で利用できるようにすべきである。がん研は国民のための組織・研究機関ではないか。なんともお寒い情報公開の現状の一端ではある。

新聞各紙にも一言。記事に引用する場合は、1次資料の出所はきちんと明らかにしてほしい。これがけっこうまちまちなのだ。ちなみにイギリスの国営放送は科学記事などはきちんと1次資料までたどれるようにリンクされている。この情報に対する国民性の違いはかなり大きい。

今年もまた1年が始まる

昨年はいろいろ大変な年でした。そのいろいろなことを引きずって今年もまた1年が始まりました。そんな年を展望する念頭にふさわしい一冊を紹介します。

昨年末あたりから新聞各紙の書評で取り上げられているトマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)。

資本主義社会では必然的に格差社会が広がる、ということを歴史的に統計資料などを駆使して明らかにし、富裕層への課税を増やすことを提案している。つまり累進課税のシステムを再構築することを提案しているようです。しごく当然。

私はこの本を年末に図書館で借りた。まだ読み終えてはいないので、ここでは本筋とは逸れるのですが、市立図書館でこの本を借りた前後のいきさつなどを話してみたい。

自宅のPCで、どこの公立図書館がこの本を所蔵しているのかを検索したところ、当然あるだろうと思っていた県立図書館には無く、10万そこそこの人口の、ある市の図書館一館にだけ所蔵されているという意外な結果が出た。

「へえ〜そんなもんかなぁー」「図書館司書らの関心度はイマイチだなぁ」。司書らの大半はおばさんたち(失礼)なので、『純粋経済学』にはあまり関心がないのだろう。家計を預かる『台所経済学』には精通していても、やはりこの手のものは苦手なのかもしれない。

一冊だけ所蔵されているある市までは、私の住んでいるところから少し遠いので、比較的近くの図書館にその本を取り寄せてもらうことにした。著者、署名、出版社など必要事項を書き添えて窓口に提出すると、手続きが年末だったので、本が届くのは年明けの10日過ぎごろになるという。

その司書は「市に蔵書がないので購入するかどうか市の担当の社会教育課に伺いを出したり、年末年始の休日も含むのでそれぐらいの日時がかかってしまう」という。

私は単に他市の市立図書館に所蔵されているその本を取り寄せていただく手続きをお願いしたつもりでいたのだが、どうやらこの図書館でも購入するかどうか検討するというのだ。購入するかどうかを検討するのは図書館側の事情に属する事柄で、もとより私にはあずかり知らぬ事。何か話があらぬ方向に向かっていた。

この図書館では、従来の市立図書館から民活(指定管理者制度)を取り入れて効率性とサービス向上を図っているという。が、図書館システムそのものは何ら変わっていない。明らかだった。管理・運営は民間業者が請け負っているのだが、すべての面で行政に伺いを立てなければ事が進まない旧態依然のそれなのだ。

当然、すべての面で監督する担当行政課に書類を通さなければ事が運ばないので、あらゆる個所でタイムラグが生じる。つまり、従来よりも利用者サービスが遅滞している。所詮は営利を目的とした民間企業なのである。従来の図書館システムに乗った管理・運営方式では根本的な無理がある。効率化やサービス向上は実は画餅なのだ。

私がとやかく言ってもシステムが好転するとは思えないが、ソフト事業である図書館の運営・管理は、所詮は民間企業には任せておけない社会教育分野なのだ。財政難の行政にとって民活を取り入れて図書館の事業費を減らすのは結構だが、だれのための事業なのか、今一度抜本的な問題から再構築してみてはいかがか。

まずは、カウンターの周りにずらりと並んだ各種チラシやパンフレットなどを少し減らしてみたらどうだろう。あまりいらないものに印刷代(意外とばかにならない)にお金をかけることはない。ちょっとした広告なども取り入れているようだがあまり効果があるとは思えない。本来営利を目的とする事業ではないので広告といっても、たかがしれたものだ。年度末ごろ、蔵書整理を兼ねた有料の「ブックリサイクル」を開いているが、中には高価な本や一度も読まれなかったと思しき本もリサイクルに出されており、つくづく税金の無駄遣いをしていると思わされる。支出フローをもう一度、見直す必要がある。

今回のことで一つ分かったことは、直感的ではあるが、県立図書館も各地の市立図書館も司書のレベルには実はさほどの大差はなく、個々の司書の見識というか常識力によって各館は運営されているということだ。

その後、『21世紀の資本』は県内各図書館に次々と所蔵されていった。図書館必携の一冊であることが新聞各紙の書評などにより遅まきながら浸透していった結果なのだろう。まあ、私も10日過ぎを待たずにこの本を借りることができた。さて、読み進めることにしよう。

『空白の五マイル』を読む

  以前、新聞の書評を読んで気になっていた角幡唯介『空白の五マイル』(集英社)をブックオフでゲットした。最近、文庫化されたので買おうかと思っていたが、偶然ハードカバーが手に入った。帯付きのとても白っぽい本で、ちょっと得した気分になった。なにせ税込み108円。家に帰ると早速読み始めた。

 角幡氏は、1976年北海道芦別市生まれ。早大政経学部卒。探検部OB。朝日新聞記者を経て現在はノンフィクション作家・探検家。同書は、東ヒマラヤ、チベット最奥部にある世界最大のツァンポー峡谷を探検し「空白の五マイル」と呼ばれる人跡未踏のツアンポー川流域を2002〜2003年、2009年に単独行を含めて踏破したノンフィクションだ。同作品で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞梅棹忠夫・山と探検文学賞三賞を受賞している。

 ヤル・ツアンポー大峡谷はヒマラヤの探検史に必ず出てくる地理的な秘境である。1800年代から英国印度測量局パンディッド(地元民を使った探検スパイ)を派遣して大峡谷内部を探検させるが成功しない。英国の探検家F・M・ベイリーやF・K・ウオードも、最奥にあるといわれる幻の滝を見つけようと目指すが、結局、地形が険しすぎて、1990年代まで誰もそこまで到達できなかった(ホトケの顔も三度まで、角幡唯介のブログ)。

 角幡氏は文献を猟歩し、偵察旅行を重ね、着々と準備を進めていく。朝日新聞社を辞めて単身でツアンポー峡谷に向かい、残された地図上の空白部を明らかにしていく。過去に挑んだ探検家たちのエピソードがいかに過酷で困難な探検であるか。己の死と真っ向から向き合いながらクライマックスを迎える探検は想像を絶するものだ。

 冬の峡谷に分け入り24日。食料が底をつき体は衰弱していく。カモシカなどの動物の描写が少し出てくるが、現地では食べられる動植物は調達できなかったのだろうか? 服部文祥氏のサバイバル本などを読んだ者にとって何とかならなかったのかと少し疑問が湧いた。

エピローグ。『「べユルという意味を知っているか」と彼は言った。「隠された秘密の場所という意味だ。物質的に何かがあるわけではない。本当の信仰心がないと、そこに行っても何も見えないのだ。お前がべユルに到達しても、何かが見つかるかどうかは分からない」』という会話が出てくるが、何故か私にはこれが隠れた主題のように思われた。

[関連本]
F・キングドン=ウォード『ツアンポー峡谷の謎』岩波文庫、2000
F・キングドン=ウォード『植物巡礼』岩波文庫、1999
金子民雄『東ヒマラヤ探検史」連合出版、1993
R・A・スタン『チベットの文化』岩波書店、1971
山口瑞鳳チベット 上・下』東大出版会、1987、1988
Baker,Ian;The Heart of the World:AJourney to the Last Secret Place.The Penguin Press,2004

 

 
 

鞍掛山に登る

 






 



 宇都宮市の北西部、県立自然公園エリアに位置する鞍掛山(492.4m)は、山岳信仰の山であった。国道293号から鞍掛林道に分け入ると、一の鳥居、二の鳥居、鞍掛神社が並び、山容全体が信仰の対象であったことを体感する。今回は、そんな修験道の信仰の山を訪ねた。

 鞍掛山は、宇都宮市新里町と日光市猪倉町を東西に結ぶ県道22号(通称・新里街道)の鞍掛峠を貫く鞍掛トンネル(938m、1997年開通)の南側に位置。平坦な山頂部の細尾根が約500mにわたり、その馬の鞍のような形から鞍掛山と呼ばれる。麓の鞍掛神社は雨期に現れる滝と洞窟とされ、鞍掛山自体が自然崇拝の対象であったことが分かる。山頂尾根の西端部には奥の宮があり、小さな祠が祀られている。

 鞍掛山の登山ハイキングは、国道293号から鞍掛神社を経る表参道コースが一般的。かつては鞍掛峠から登るコースもあったが、鞍掛トンネルの開通によって峠越えしていた旧道が廃道になったため峠からのコースはほとんど使われていない。市境の峠には男性性器を素朴に象った道祖神が祀ってある。ネット情報では、この荒れた旧道が今では心霊スポットの一つとして紹介されている。

 今回は表参道コースを歩いた。鞍掛林道入り口の案内板を過ぎると二の鳥居手前に鞍掛山登山道の案内板がある。ここで概略をつかんでさらに進む。右手の沢伝いにしばらくスギ・ヒノキ植林地帯を歩く。足元はザレ場。時折、コアジサイが可憐な花を咲かせていた。落葉広葉樹林帯に入ると右手の岩盤に双体神(両方とも首から上が無く、岩石で挿げ替えてあった)が祀ってあった。この裏手に滝がある。これが御神体なのだろうか? 設置されたロープを使い沢伝いに進む。

 メジロヤマガラ、コガラ、オオルリの声が谷間に響き渡る。用意した7倍双眼鏡で見渡すと、枯れ枝に止まるオオルリのつがいを発見した。『フィールドガイド・日本の野鳥』には「特に渓流沿いの林を好む。巣の近くに人が近付くとメスもさえずりに似た声を出す」という記述があるが、まさに眼前の光景はこの状況。約50cmの間隔で雌雄が枝先に止まっており、メスも威嚇の声を発しているようだ。オスのような長いさえずり声ではなく(表現が難しいが)単調な声だった。

 最初にメスが枝先にとまって威嚇声を発していたので双眼鏡で声の方を覗くと、何やら茶色っぽいスズメより少し大きな目の丸い鳥が鳴いている。するともう一羽が飛んできて、茶色っぽい鳥の近くの枝に止まった。良く良く見るとなんとオオリリのオス。薄暗いので瑠璃色は良く見えなかったが、顔の下半分から首から胸にかけての黒が特に目立つ。明らかにさんざん図鑑で見慣れていたオオルリのオスであった。双眼鏡でこんなに長く(約1分)捉えたのは初めてだった。それも雌雄を一緒に見たのも初めてだった。威嚇の声をあげていたとすると、付近に巣を構えて子育てをしていたつがいだったのかもしれない。こんな幸運に出くわすことはもう二度と有りえないだろう。一期一会。

やがて分岐点に到着。ここで鎖の急登の岩コースとやや急ではあるが岩コースよりは登りやすい尾根コースに分かれる。迷わず右手の尾根コースを進む。コナラ、アカマツ、ブナ、ヤマザクラ、カシワなどが目立ってきた。20分位で大岩に着く。ようやく展望が開け古賀志方面の山々が身近に迫る。褶曲した層がくねる岩が点在していた。そんな岩の上にはテンとおぼしき褐色の糞(長さ10cm、太さ1cm)などがみられた。アカマツの根元などにはリスやムササビが食べた松ぼっくりの食べカス(エビフライ)があちこちに落ちていた。東の空から「ピーヒョロ、ピーヒョロ」とトビの鳴き声、谷間からは「特許許可局、特許許可局」とホトトギスの鳴き声が響いていた。まさに初夏である。

 鞍掛山山頂には三等三角点が打ってあった。落葉広葉樹が生い茂り、展望は余り利かなかった。山頂部の西の奥の院を周り、岩コースを下山。かなりの急傾斜。45〜50度はあるだろう。いきなり鎖が張り巡らされている。鉄製の鎖はけっこう錆ついていて、鎖をつなく支柱が倒れている処が何ヵ所かあった。そろそろ再整備が必要かもしれない。下から60〜70代と思われるハイカーが一人で登ってきた。ガレ場なので立ち止まり待っていた。「こんにちは。ここはきついね」とすれ違いざまにあいさつするので、「こんにちは。この先あと30mはありますよ」というと、大粒の汗を浮かべてゆがんだ顔がさらに不快な表情に変わった。

 頭上をエナガ、ヒガラ、シジュウカラの混群が木々を渡っていく。急傾斜のザレ場にスギ・ヒノキの植林地対が広がり、戦後の拡大造林のすさまじさを彷彿させた。これでは間伐や間引きなど手入れがままならない。雪の重みで大きく折れ曲がったり幹が裂けたスギが点在する今年2月の記録的な豪雪のつめ跡がみられた。「わが国の暖帯林の北限に当たり、ヤマツバキ、アラカシなどが自生する」(角川日本地名大辞典 9 栃木県)とされているが、確認はできなかった。植林帯には神棚に供えるヒサカキが多くみられた。岩コース区間などのガレ場を除けば比較的歩きやすいコースだ。





 

石裂山、23年ぶり再訪

 









 










 

 
 鎖場と岩尾根を巡る信仰の山で知られる鹿沼市上久我の石裂山(879.4m)回遊コース(前日光県立自然公園)に出かけた。1991年に3件の死傷事故があり2人が亡くなった、私にとっては曰くのハイキングコース(当時)である。それから23年余り。危険ヵ所は整備され、登山コースに衣替えされていたが、細い登山道のうえ、急勾配のアップダウンが多く、中高年には気の抜けないコースには変わりない。今年2月の記録的な大雪の影響で登山コースのあちこちが倒木でふさがれて歩きづらかった。痩せ尾根の岩場にひっそりと群生するピュアホワイトのヒメイワカガミにはとても癒された。

 死傷事故があった当時は、鎖場や鉄梯子などは必要最小限程度に設置されていたように思うが、現在では急勾配のヵ所にはアルミ製の梯子が設置されていたり、鎖もステンレス製のしっかりしたものが設置されていた。成樹脂性のコースを示すロープや、危険標識、従来からの鉄梯子なども要所要所に設置されていた。

 全体的には危険ヵ所の喚起を促す標識が目立った。地元関係機関の安全策の一環と思われるが、事故の後、ハイキングコースを登山コースに改めたが、以前のハイキングコースの標識もコース内に残っており、ちょっと統一感に欠ける。私などどっちなんだ、と再三迷った。まあ登山コースなのだろうが、山中の標識は重要性が高いのできちんと統一してほしいものだと思った。

 今思うと、当時の地元行政機関はパンフレットなどで石裂山周遊コースをハイキングコースとして紹介していた。大手山岳書籍出版社でも石裂山をハイキングコースとしてガイドブックで紹介していた。中高年の登山ブームと相まって山岳事故も多発している背景もあった。

 当時の地元紙によると、1991年3月6日、埼玉県の職場グループの女性(当時61歳)がヒゲスリ岩の鎖場で滑落死。同9月1日、栃木県壬生町の武道愛好グループの男性(当時37)がやはりヒゲスリ岩で滑落死。同10月5日、東京都の主婦らの登山グループの女性(当時57)が下山途中月山直下の岩場で滑落し、1ヵ月の重傷を負った。地元警察署は、いずれも現場は急傾斜の岩場で、「自己過失」による滑落・転落事故と断定した。その後も散発的に死傷事故は続き、現在、現地の立て看板には5人が死傷していると記されている。

 さて、今回の山行だが登山道が倒木で歩きづらかったことと体がなまっていたせいもあり、一言で言うととても辛かった。倒木で登山道がふさがれていて千本桂まで行くのにも一苦労した。この間、登山道の左手にはシカ除けの防護ネットが延々と張り巡らされていた。所々倒木でネットが倒れていたり、雑草が絡みついてネットがたわんでいたりと、シカの侵入を防ぐ役目はほとんど果たしていないように見えた。その証拠に付近にはシカが食んだとみられる野草の食み痕が至る所に見られた。奥日光や足尾のシカはこんな所まで分布域を拡大している。近年ではサル・イノシシ・クマなどの分布も報告されている。こんな情景は少なくとも22年前までは報告されていなかった。前日光の自然は大きく変わりつつあるようだ。

 登山道をふさいでいる倒木は、今年2月に2週間連続(2月8、15日)で関東信越を中心に降った大雪が原因であるようだ。新聞などによると、本州の南を発達しながら通る南岸低気圧がもたらした記録的な大雪だった。宇都宮市では1890年の気象観測開始以来最高の32cm(15日午前7時)。最大瞬間風速は奥日光で34.2m/s(西南西、16日午前8時22分)をそれぞれ記録した。気象庁の異常気象分析検討会では30年に1回程度起こる「異常気象」との見解を示した。

 登山道付近は広葉樹林よりも拡大造林のスギ・ヒノキの植林地が多く、30〜50年程度のスギが縦に裂けていたり根をむき出しにして倒れていたり、大きく反り返っている姿があちこちに見られた。いずれも雪の重みによる惨状と考えられた。地元のボランティアらが登山道をふさいでいる倒木を片づけているようだが、これにも限界がある。地主をはじめ行政など関係機関が早急な整備対策を取ることが必要だろう。

 千本桂を越えてしばらくすると鬱蒼とした中ノ宮の休憩所に到着。ここに鹿沼警察署・鹿沼市・加蘇山神社の連名で過去に死傷事故があったことを記した立て看板が設置されていた。ここからはハイキングコースではなく登山コースであるとが記されていた。しかし、その先に何度も登場する案内板にはいまだにハイキングコースと記されたものもあった。

 太い鎖と梯子が掛かった数十メートルの一枚岩をゆっくり登り、奥ノ宮をのぞき、痩せ尾根を歩き東剣ガ峰、西剣ガ峰までをゆっくり歩く。ヒゲスリ岩は奥ノ宮と東剣ガ峰の間にある。整備が進み特に危険ヵ所という感じはせずに通り過ぎた。午前9時ごろから登り始めたので、昼近くになりこのあたりで昼食にしようとルートから少し外れた岩場に腰を下ろしてストーブでお湯を沸かす準備をしながらふと目の前を見ると真っ白な可憐な山野草が目に入ってきた。えぇ〜、何だこれはイワカガミかな? と偶然の遭遇に驚いてしまった。まさに窮すれば通ず。花冠、細かく裂けた先端部、鋸葉数などの特徴を図鑑と照らし合わせて、よくよく眼を凝らして眺めた。イワウチワ→イワカガミ→ヒメイワカガミ。ようやく同定した。ヒメイワカガミには数変種あり花は白と紅色のものがある。葉縁の鋸歯はヤマイワカガミに比べて少ない。付近を捜すとそこここにミニ群落が出現した。盛りは少し過ぎていたが、群落はとても可憐で素晴らしかった。

 ルートの周辺にはスギの巨木をはじめ、モミ、ツガ、アカマツ、カシワ、ブナなどの巨木も点在していた。岩場の胸高直径50?ほどのツガはなぜか枯れ木が目立った。ある種の害虫にやられたのか、それとも酸性雨に弱いのか、本当のところはどうなのだろうか? 

 石裂山の山頂は5坪ほどの空間で展望は奥日光方面が見える程度だが、まだ真っ白な奥白根山(2,578m)が印象的だった。月山も余り展望は利かなかったがさらに奥日光(奥白根山)が近づいて見えた。祠は崩れそうで少々荒れた雰囲気だった。コース沿いには少し盛りを過ぎたアカヤシオミツバツツジシロヤシオが見られた。帰りは急な下りを踏みしめながら倒木のルートを越えて麓に着いた。

 10日から16日まではバードウィーク。どんな野鳥に出合えるかと楽しみにしていたが、ヤマガラ、ヒガラ、シジュウカラメジロ、ウグイス、コジュケイ、カケスなどの定番のほかは、オオルリ(目視)ぐらいしか出会えなかった。しかし、7種類の聞きなれない夏鳥? のさえずりを耳にした。夏鳥の目視はなかなか難しい。

 歳のせいかくたくたに疲れた。22年ぶりの再訪とあって当時を回想しながら歩き、久しぶりにいい汗をかいた。明日の筋肉痛がこわい。

 5/11 石裂山:午前9:00〜午後14:50。6.6km、10202歩(355kCal・25g)