猪変は単なる異変ではない

 ヒトとイノシシとの軋轢を題材にした中国新聞取材班編『猪変』(本の雑誌社、2015)を読んだ。イノシシの個体数増加による分布拡大と農業被害を背景に、その保護と管理の問題をフィールド調査を基にしながらまとめたルポルタージュ。取材はヨーロッパにもおよび、イノシシ猟の現状なども紹介されたが、タイトルの「猪変」がどうもしっくりこなかった。それはもっと違うレベルのことに思えた。

 同書でまず私が注目したのは、次の各フレーズである。
  
  「獲物のうち、純天然のイノシシは一割もおらなんだ」。九割はイノブタだ、  というのだ(26ページ)

  牙も鼻も短い。耳たぶは大きく、子を産む数が多い―。広島県瀬戸田町の生口  島にいるのはイノシシではなく、大半がイノブタだと、地元の猟友会員たちは  言う(26ページ)

  ブタとの交雑がもたらす害悪は甚だしい。大脳や感覚器官、特に鼻、臭覚の衰  退が観察されている。動物種の遺伝形質を純粋に保つことが望ましい(100ペー  ジ)

  「秋仔は、異変ではありませんよ」と小寺さん。―牙や歯の状態から、―生ま  れている期間が高い頻度で、四月の中・下旬から十月下旬に及んでいることが  分かった(207ページ)

 つまり、これらの文はいずれもイノシシではなくイノブタのことを指しているということだ。これが「猪変」の本当の意味ではないのか? 

 取材班の面々はあくまでも野生動物のイノシシを念頭に置いて取材を進めている。地元の人たちからイノブタの話は聞くものの、イノシシとブタの交雑種イノブタについてはまったくといって眼中になく、全く追求されない。

 研究者も研究者で、自分たちは野生動物のイノシシを研究しているのだというスタンスを堅持しており、この本の中ではほとんどといっていいほどイノブタの存在を問題にしていない。すべて野生イノシシの行動・生態を研究しているつもりでいるようだ。

 取材班のイノシシ研究者としての取材対象はフィールド・サイエンスの研究者だけなのだ。分子生物学や細胞生物学の立場でイノシシの遺伝的解析を行う研究者はまったく含まれていない。取材は現地での被害農家、猟友会員、行政担当者そしてフィールドサイエンチストが主な対象なのだ。そんなことだからヨーロッパまで取材に出かけていっても、今回の取材で最も重要な事実(100ページ)には全く気が付かない。

 取材班は、福島原発周辺のイノシシの現状に少し触れてはいるが、ヨーロッパまで取材に行くくらいなら、福島の交雑種・イノブタの実態を見てくるべきだったと思わざるをえない。

 「秋仔」は異変ではないと研究者はいうが(207ページ)、季節繁殖の野生動物が十月下旬に数頭の子を産み、寒さと餌が枯渇する冬季を母子の群れが越えていくことが繁殖戦略上、進化的に有利に働くとは思えないのだが、いかがなものか? 

 そもそも「秋仔」の存在は、神戸のイノシシの行動観察が発端。現在では、この時すでにフィールドにはイノブタが存在していた、と指摘する研究者もいる。遺伝子レベルでの研究が結論を出すことになるだろう。

 「猪変」は文学としてはそこそこ面白いが、サイエンスとしては大きく的をはずれ、特ダネを逃してしまった感が否めない。続編に期待したい。