『「技術と人間」論文選』を推す

 「地震大国日本で原発を立地すること自体、間違いである」
 
 こんな当たり前のことになぜ今まで気がつかなかったのか? そもそもエネルギー問題に対してこれまで余りにも無頓着だった自分自身が情けない。人間、実際に火の粉が降りかかってみないと本当の熱さは分からないのである。

 そんな折、高橋磤・天笠啓佑・西尾漠編『「技術と人間」論文選』(大月書店)の書評がブック・アサヒ・コムに載った(※)。「原発批判に孤軍奮闘した軌跡」と的確な見出しが付いている。巷には原発関連本があふれているが、急場しのぎのものばかり。その点同書はA5版2段組、502ページとなかなかのボリューム。内容も多岐にわたり、いずれの論文も反原発の立場が貫かれている。多くの人たちに読まれるべき一冊だ。

 1972年4月に創刊された「技術と人間」は、原子力生命科学、コンピュータなど20世紀後半から急速な発展を遂げた科学技術分野を中心に、先鋭な問題意識で論評を加えてきた稀有な雑誌といわれていた。原子力関連では、2005年10月の終刊までに750編余りの論文が掲載された。同書では、この中から原発国家プロジェクト批判、TMI原発事故、チェルノブイリ原発事故、低線量被曝の危険性、海洋汚染、高レベル放射性廃棄物の処理問題など、36編の論文が掲載されている。

 「エネルギーコスト分析の観点からすれば『安全性』や『許容量』などの視点から原発の是非を論じること自体、ほとんど無意味であり、場合によっては欺瞞的でさえありうる。エネルギー供給源の少なからぬ部分を原子力に頼るような社会で発生することは、原発による既存のエネルギー資源の濫費(そしてその急速な枯渇)と、他方でそうした濫費の結果としての熱拡散と放射能による生態系・気象系の破壊」と、「原子力のエネルギーコスト」の中で室田武氏は原発の存在の不条理性を厳しく追及する。

「微量放射線の生物学的・医学的危険性」で市川定夫氏は「放射線がいかに微量であろうとも、その線量に応じて影響が現れるということが、もはや動かすことのできない事実となったのである」として、「現在生きているわれわれが、自分たちの生活の余裕と享楽を確保せんがために、原子力まで使った発電し、われわれの子孫には、突然変異と放射性危険物やプルトニウムの厳重管理という、二重、三重の苦痛を強いることが許されるであろうか」と問いかける。低レベル被曝の影響については今なお見解が分かれているが、被曝量は小さくとも、被曝量に比例してガン死リスクが増加するというLNTモデルを採用して考えるのが様々な批判に耐え得る立場とされている。

 「放射性廃棄物の問題点」で小出裕章氏は、「死の灰を生み出さずに核分裂を起こすことはできない。この冷厳な事実が、原子力が抱える危険の一切の根源」と指摘。「プルトニウム半減期は24000年。およそ100万年にわたって人間の生活環境から隔離しなければならない。原子力の『平和』利用を進めれば進めるだけプルトニウムは溜まってしまうし、高速炉を動かせば超優秀な核兵器材料も溜まってしまう」と、これまで膨大な核開発を進めてきた張本人(日米)の矛盾に満ちた姿勢を批判した。

 「原子力技術を考える」で高木仁三郎氏は「原子力だけではなく、他の技術も含めてすべての技術の問い直し、もっと大げさにいえば一つの文明の転換みたいなもの、そんな大きなものを獲得しないかぎり原発体制はいくら危険性を主張してもなくならないだろう」とやや自戒を込めて述べているが、今やそれは現実のものとなった。3.11 東日本大震災によって、はからずも日本社会は「文明の転換」へのシフトを迫られている。同書は、そんな原発と日本社会の来し方行く末を考えるうえでとても示唆に富む論文集といえる。

原発批判に孤軍奮闘した軌跡|好書好日

 PS:同列の関連本としてジョン・W・ゴフマン『新装版 人間と放射線』(明石書店)、ジョレス・メドヴェジェフ『チェルノブイリの遺産』(みすず書房)を上げておきます。