koujinのつぶやき その3













 






 
 3日前の土曜日、日中は猛暑が予想されるというのに、例によって友人と車で古書店ブックオフ巡りに出かけた。「十年一日」というが、古本屋というものはまったく変わり映えがしない。棚の本は1年ほど前に来た時とほとんど同じ配置で埃をかぶっている状態だ。がっかりしながらも文庫の棚に目を移すと、何か怪しいタイトルの本が目に飛び込んできた…。

 最初に寄ったのは、あまり売れなかったのだろう、ジャンク品のコーナーをたたんで、新古書、マンガ、DVD、CDのみにした店舗。けっこう広々としていて品数も豊富にみえた。目を引いたのは揃いもの。音楽の友社の「名曲解説全集」や筑摩書房の「校本宮沢賢治全集」が並んでいた。しかし、いずれもまだまだ安くは無い。

 パラパラとページをめくってみると、ほとんど読んだ形跡がない。全集を揃えたのはいいがインテリアか何かのように応接間か書斎にでもそのままずっと置かれていたのかもしれない。それが、引っ越しとかなにかで邪魔になったのかもしれない。こういう場所を取る重厚長大モノは今や粗大ごみなのか。少なからずカルチャー・ショックを感じるのは私だけだろうか? 

 一店目を出たあたりで11時を回っていた。ちょっと早いけどそばでも手繰ろうかということになり、道の駅の農村レストランに入った。いろいろ迷った挙句、結局は一見若そうな店員さんの誘導で手打ちの盛りそばとかき揚げを注文した。大画面のTVにはロンドンオリンピックの開会式の模様が映し出されていた。

 5分ぐらい待つと出来上がりを知らせる手元のブザーが鳴った。ここはセルフサービス。カウンターまでそばを取りに行った。限定という手打ちそば歯ごたえはあったが、ちょっと少なめ。かき揚げは揚げたてではなく少々しんなり。つゆは甘めだった。そんなそばをたぐり、かき揚げをつまむと、あっというまに平らげてしまった。ざる3枚はいけそうだった。猛暑の外に出ると、駐車場わきの寄せ植えにトロピカルな色合いの花が咲き乱れていた。

 


 次に向かったのはその界隈では老舗の古本屋。昔は大通りから一つ奥に入った中心街の通りにあったが、近年、住宅街に移転して、店舗とインターネット(日本の古本屋)で手堅い商売をしている。ここは山の本がけっこう充実している。もう数何前になるが裸本の『チョゴリザ』(朝日新聞社)を購入したのを覚えている。

 網戸を開けて店内に入ると年配のおばあさんが「いらっしゃいませ〜」と声をかけてきた。この暑さで店内は熱気むんむん。暑くて集中して棚をみていることができない。あまり目ぼしい本もなさそうだと諦めた瞬間、文庫本の棚に懐かしいタイトルの本を発見した。

 沼正三家畜人ヤプー』(角川文庫)。奥付けの値段をみると何と100円。たしかこの文庫は絶版ではなかったかなと、ちょっとにんまり。友人の方は3冊ぐらい抱えているので一緒に買ってくれと渡した。『家畜人ヤプー』についてはあまり語りたくない。あとがきと曽野綾子さん、イザヤ・ベンダサンの解説が読みたくて買ったようなものだ。本文は読まないだろう。なぜ読まないかは知っている人は知っている「稀書」だからだ。暑いので早々に御暇した。

 三軒目はまた新古書店。クーラーが利いていてとても涼しい。まず目についたのは美術出版社から出ている世界の巨匠シリーズ。ちょっと大きめの画集だが定評のある翻訳シリーズだ。ヒエロニムス・ボッス、レンブラント、スルバラン、デューラーブリューゲルゴヤマグリットなど、錚々たる西洋世界のアートがそろっている。40冊ぐらい並んでいた。いずれも500円。これはすぐ売れてしまうだろう。こういったモノを買っていくのはほとんどが中高年層。なぜか生物学でいう「ボトルネック効果」という言葉を思い出した。

 古本屋は相も変わらず。新古書店では、行く先々で全集本やシリーズ物が並んでいてけっこうにぎやかなようにみえたものの、それらも出払ってしまえば後が続かない。重厚長大モノも受け継ぐものがいなければ、やがてその果実は本当の粗大ごみになってしまう。

 こうした泡沫の光景は、物質文明に翻弄された我々のこころの姿を映し出しているのかもしれない。